『コンビニ人間』(23冊目)

 2024年一発目。芥川賞の受賞作である。ページ数が少なかったので、久しぶりの読書に最適だと思い購入。内容も面白かったので、通勤時間中にあっと今に読むことができた。内容も面白かったので、通勤時間中にあっと今に読むことができた。

コンビニの情景が目に浮かぶ

 本作を読んでまず感じたのは、「音」の表現の豊かさだ。舞台はタイトルにもあるコンビニで、社会人になってもフリーターとしてコンビニで働く古倉という女性が主人公。「普通」がわからず、社会にうまく適合できない存在として描かれている。人の気持ちが理解できず、周りのことにもあまり関心がない、無感情な存在として描かれている彼女が、唯一生き生きとしている場所がコンビニであった。読んでいて、彼女がコンビニで働いている際の情景はカラー映像として脳内変換されていたが、友人との会話や、自宅での様子など、コンビニ以外で主人公を取り巻く世界は色のないモノクロ映像として感じられた。私と同じように感じる読者はいると思うが、おそらくそれは著者が意図して描いているのではないかと思う。
 主人公がコンビニにいる際、周囲から聞こえてくる「音」の表現が非常に多い。店内を流れる有線放送、店員の掛け声、バーコードをスキャンする音、パンの袋が握られる音。これらの音は冒頭で描かれていたが、コンビニの喧騒が映像としてありありと脳内に流れ込んでくる。コンビニを利用したことがない人の方が少ないと思うので、こうした描写を通じて、一気にその世界に入り込むことができる。一方で、例えば、白羽というヒモ男との自宅での会話や、同級生の友人たちとの会話は、会話内容が描かれているだけで、周囲の「音」の描写はほとんどない。コンビニでのみ、耳や触覚といった五感の描写がより豊かになっていた。

「普通」とは…

 言葉の意味は、時代によって移り変わるものである。昭和の時代は物質的な豊かさがまだまだ十分ではなかった。そのため、テレビや冷蔵庫といった家電を手に入れ、今で言う「普通」の暮らしを送ることは「ステータス」として捉えられていた。仕事や教育の場面でも、みんなと同じ「普通」であることが評価されており、「出る杭は打たれる」そんな時代であった(その時代を過ごしてきたわけではないので、あくまで推測であるが)。それが平成、令和になると、当たり前に物を買うことができ、誰しもが「普通」の生活を送ることができるようになった。職場や教育の現場では多様性が重んじられるようになり、普通であることが悪い意味で捉えられるようになったようにも感じる。
 最近、巷ではより良い人生を送る方法に関する本が溢れている。多様な生き方が尊重される現代において、「普通」に生きることは案外難しい。子供の頃の夢はほとんどの場合、叶わない。中学生、高校生になりたいと思っていた仕事に就職できている人も少ない。ストレスを抱えながら、不本意ではない仕事をしている人も多い。
 そうした観点から考えると、コンビニのバイトという仕事に誇りを持ち、生き生きと働いている主人公は、社会一般的には普通ではないのかもしれないが、彼女自身が納得しているのであれば、それはそれで幸せなのではないかと思う。人生のゴールや幸せの基準は人それぞれ違う。子孫を残す。仕事で要職につく。財をなす。家族・友人と楽しく暮らす。誰が正解で誰が間違っているというわけではない。みんな普通であって、みんな普通ではない。比較することすら間違いなのかもしれない。筆者が伝えたかったのは、そういったことなのではないかなと思った。
 すぐ他人と比較して自分の悪い点ばかりに目を向けてしまう自分にとって、正直なところ、主人公の生き方も悪くないと感じた。人間関係を円滑に進めるために、また、悪目立ちしないためにも、周囲の「普通」に合わせることや、周りの考える「普通」の自分を演じることは確かに大切である。しかし、時にはもう少し自分の中にある「普通」を大事にしてあげることも大切だと感じさせられた。

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