『嫌われる勇気』岸見一郎、古賀史健(2冊目)

読書日誌

かの有名な「アドラー心理学」の考え方について、哲人と青年の対話形式で解説されている。アドラー心理学いっとき流行していたのは知っていたが、食わず嫌いだった。自己啓発本としては、非常に考えさせられる本だった。もっと早く読めばよかったと後悔。

自由=他者から嫌われること

本書は大きく前半、後半に分かれている。前半部分では、対人関係についての考え方を中心に解説されていた。他人のことばかり考えて行動している(堀江さんの言葉を借りるなら、「他人時間」を生きている)ようでは、本当の幸せにはなれない。他人から認められたいという「承認要求」に縛られているようでは、自由な生き方ができないらしい。そこで、「自分時間」を生きるための助けとなる考え方として、「課題の分離」という言葉が出てきた。簡単に言えば、自分の課題と他人の課題を分けて考えよということ。本文では、「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を呑ませることはできない」や「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」という例えで表現されていた。わかりやすい。自分の能力でどうのこうのできる範囲は限られていて、最終的な判断は外部環境(他人)に委ねるしかないということがこの世にはあふれている。この考え方が、タイトルである「嫌われる勇気」につながってくる。自由とは他者から嫌われることであるらしい。 言い換えれば、他者の評価を気にかけず(つまり、他者から嫌われることを怖れず)、承認されないかもしれないというコストを支払ってはじめて、自分の時間を生きられるということらしい。読みながら主人公の青年の考え方が自分と重なった。他人の目ばかり気にし、こうしたら相手がどう思うだろうという不毛なことにばかりに意識がいってしまっている。その時点で、認めてもらいたいという自意識過剰な状態に陥っていることに気付かされた。他者からの評価を気にした時点で負け。自分は自分、変えることができるのは自分の「考え」と「行動」のみで、他人がそれをどう判断するかは他人の勝手であり、好きにやらせとけっていう世界。シンプルでわかりやすいと思った。(決して自己中に慣れという話ではい。馬を水辺に連れて行くまでの努力はしっかりしようという話)

アドラー心理学における人生観

後半は、アドラー心理学における「人生観」について述べられている。冷静に考えると極々当たり前のことを言っているように感じるが、改めて考えさせられた気がする。以下2つの文章はかなり刺さった。

・アドラー心理学とは「勇気の心理学」である。自分が不幸なのは過去や環境のせいではない。ましてや能力が足りていないわけでもない。ただ、勇気が足りないのだ。「幸せになる勇気」が足りていないのだ。

・「もし〇〇だったらという可能性の中に生きているうちは、変わることはできません」。単純に一歩踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。今享受している楽しみや現状維持という楽さを犠牲にしてまで、変わりたくない。つまり、ライフスタイルを変える「勇気」を持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしても、今のままでいた方が楽なのです。

“今”を生きる

 過去を後悔したり、未来をくよくよ悲観しているのは、自分の人生を考えているようで、実際は逃げているだけで、「いま現在」を真剣に生きていない証拠らしい。本書では、「いま、ここに強烈なスポットライトを当てよ」とある。わかりやすい例えだ。劇場の舞台の上に自分が立っているとして、蛍光灯のぼんやりとした明かりに照らされていると、客席の一番奥まで見渡せる。自分の未来や過去も見えているようなイメージだ。いわゆる「パッとしない」状態。一方で、自身に強烈なスポットライトが当たっていると、最前列さえ見えなくなるほど眩しい。これがまさに、今しか見ていない状態である。今を真剣に生きていれば、過去がどうとか、未来がどうありたいとか考え、憂う余裕などない。今を真剣に生きていれば、いずれは点と点がつながって、気付いたら自分がなりたい姿に成長しているかもしれない。今を真剣に生きている人は、周りから見ても、眩しく映っているものだ。

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